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漢方医学に貢献した人 その2

東洋医学に貢献した医師 その2

上京へ

敬節は師匠について本格的に漢方の修行をするために、周囲の反対を押し切りって上京します。1930年(昭和5年)についに妻子を残し、繁盛している高知の医院も閉院して、東京の湯本求真に入門します。湯本求真に師事すること1年、1931年(昭和6年)に高知の家族を呼び寄せて、東京牛込区船河原町に修琴堂大塚医院を開業しました。

開業した当初は患者も少なかったこともあり、時間があったこともあって、『傷寒論』、『金匱要略』などの古方の研究に専念することができました。また、湯本の同門たちと機関紙『古医道』を1932年(昭和7年)に創刊しました。師匠の湯本求真は、疫痢によって娘を失ったことから西洋医学への信頼をなくしていましたが、和田啓十郎の1910年(明治43年)『医界之鉄椎』と出会ったことを転機に漢方を志すようになり、古方派の和田啓十郎に入門して漢方医となった人物です。

湯本は潔癖に古方の教えを守っていたこともあり、やや排他的な傾向がありました。師事していた敬節もそれを見習っていたこともあり、初期は後世派や折衷派などの他派を鋭く批判していました。このような敬節を戒めたのが、敬節が人生の師と仰ぐ思想家の権藤成卿でした。成卿は、「古方には排他癖がある。反対学を学べ。」と敬節に訓戒しました。この訓戒を機に敬節は従来の古方だけではなく、森道伯の一貫堂などの後世方系や木村博昭の済生堂などの浅田流(折衷系)などの他派とも交流を積極的に行うようになりました。

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漢方復興運動へ

矢数道明(やかずどうめい)

後世派の一貫堂門下の医師の矢数道明と有道兄弟との親交が他派との交流を象徴しています。

1933年(昭和8年)、矢数有道が腸チフスを患い入院した時には、敬節の往診を受けて、起死回生の回復をみせました。

有道本人の見立てでは真武湯(下痢や腹痛に処方する)だったようでしたが、敬節は茯苓甘草湯証と見立ててこれを服用させて、症状が好転して退院することになりました。この出会いをきっかけにしてから、大塚敬節と矢数道明の両名が中心となって、流派を超えて大同団結しました。そして、昭和漢方復興の大きな牽引力となっていきました。

1934年(昭和9年)に大塚敬節、矢数道明と清水藤太郎(薬学)が中心となって、日本漢方医学会を結成します。月刊誌『漢方と漢薬』を創刊しました。(他の幹事は、古方:湯本求真、奥田謙蔵、折衷派:木村長久、安西安周、中野康章、森田幸門、薬学:栗原廣三、木村雄四郎、鍼灸:柳谷素霊、医史学:石原保秀。編集兼発行人は春陽堂の気賀林一)

拓殖大学講座

1935年(昭和10年)には矢数道明が中心となって、漢方医学講習会を開催するための団体として偕行学苑(現東亜医学協会の前身)が結成されました。

拓殖大学の講堂を会場として1936年(昭和11年)に第1回講習会が開催されました。

1937年(昭和12年)からは拓殖大学漢方医学講座に昇格します。太平洋戦争前から戦中の1944年(昭和19年)までに8回、戦後の1949年(昭和24年)に9回の講座が開催されて、多くの参加者を集めることになりました。

敬節は、第1回の講座からり矢数道明、矢数有道、木村長久、清水藤太郎、柳谷素霊、石原保秀とともに講師を勤めています。この講習会はそれから、津村順天堂二代目社長の津村重舎の助力を得ることになり1959年(昭和34年)に設立した「漢方友の会」(現日本漢方医学研究所の前身)の漢方医学講座に引き継がれていくことになりました。

また、講座の一部は大学附属の拓殖大学第一高等学校で、鍼灸を教授する理療科としてしばらく続きました。(現在は東洋鍼灸専門学校として独立)

医療における漢方診療

1941年(昭和16年に、矢数道明、木村長久、清水藤太郎たちと共に、『漢方診療の実際』(南山堂)を刊行します。この本は、現代医学を修めた医師にも理解できるように、漢方の専門用語はなるべく使わず、各論は当時南山堂から出版されていた『内科診療ノ実際』に準じて病名を中心に書くよう南山堂から要望されていました。

敬節たちは、1か月ごとに各自の分担原稿を持ち寄って、互いに推敲を重ねて3年間かけて出版するまでにこぎつけました。現代の日本では「はじめて現代医学の病名による漢方治療の大綱を整理したもの」としての評価がされていて]、また、中国でも受け入れられた翻訳本は9万部以上が出版されています。

このように評価されている本書ですが、1954年(昭和29年)に改訂版を刊行した際に、1928年(昭和3年)『治療学総論』、1949年(昭和24年)『治療学概論』の著者板倉武から「現代病理学に降参している」と手厳しく批評されましたが、敬節は「急所をついた批評」として受け止めたといいます。

板倉は漢方の本質に背くとしてこの本を批判して、敬節はこの見識を認めながらも、漢方医学の普及のためには病名による漢方治療という便法がどうしても必要だと考えました。

板倉武は、東京帝国大学医学部第一内科学教室講師を経て同愛記念病院内科医長などを歴任していますが、東洋医学と西洋医学の融合を理想としていた医師でもありました。敬節と板倉とは、太平洋戦争の末期に板倉が政府から研究費を得て、同愛記念病院内に東亜治療研究所(のち東方治療研究所と改称)を設立して所長となったときには、漢方部門の所員として敬節を招聘したという関係でした。この研究所は戦災と敗戦の影響から短期間で廃止されてしまいました。

民間薬の研究

敬節は、漢方の臨床・理論・歴史などの著書が多くありますが、終戦当時には中国からの輸入が途絶えがちになったこともあって生薬の入手が困難になりました。敬節はそれに代わるものを求めて民間薬、国産生薬・家伝薬に関する研究にも力を注ぎました。

その成果が1957年(昭和32年)の『民間薬療法と薬草の智識』(長塩容伸、大塚敬節)や1966年(昭和41年)『漢方と民間薬百科』などの出版につながっていきました。

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晩年

後進の育成

1957年(昭和32年)に二代目津村重舎の協力を得て、津村順天堂の自社ビルの一部を借り受けることになり、金匱会中将湯ビル診療所(現金匱会診療所)を開設しました。この診療所は翌年には、日本における漢方診療施設として初めて医療法人としての認可を受けています。敬節は、この診療所と自宅診療所との両方で診察を行いながら多くの門人を育成していきました。

中将湯ビル診療所開設当初は、敬節のほかに、小出弥生、藤平健、伊藤清夫、相見三郎、山田光胤、大塚恭男たちが勤務していました。

北里東洋医学研究所

1972年(昭和47年)に、衆議院議員相川勝六、床次徳二、日本医師会会長武見太郎、北里研究所所長水之江公英、前日本鍼灸師会会長岡部素道たちと共に、漢方と鍼灸の基礎的、臨床的研究を行いながら若手研究者の養成を行うことを目的とした北里研究所附属東洋医学総合研究所(現北里大学東洋医学総合研究所)の設立に参画して、初代所長に就任しました。

所長に就任してから約8年後の1980年(昭和55年)10月15日に、北里東洋医学研へ出勤するため食事をすませて新聞を読んでいたところ脳卒中で倒れ永眠しました。享年80です。

人生のすべてを東洋医学の発展に貢献して、漢方医学の復興に多大な貢献をしました。

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