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漢方医学に貢献した人 その1

創業者津村重舎

津村重舎(つむらじゅうしゃ)は奈良県出身(その当時は大和国)です。1871年(明治3年)8月28日に誕生しました。実の兄にはロート製薬の前身となる信天堂山田安民薬房の創業者山田安民がいます。

高等商業学校(現・一橋大学)中退して、1893年(明治26年)に中将湯本舗津村順天堂を創業しました。日本橋に店を構えて婦人用煎じ薬中将湯の販売を始めました。

郵便報知新聞に広告を出しながら、1895年(明治28年)には日本で初めとなるガスイルミネーションを使った看板を掲げました。その他にも広告にアドバルーンを活用したりと、様々なアイディアで広告・販売促進戦略を行ったことから、後に「PRの天才」と呼ばれるようにもなりました。

1904年(昭和37年)3月の東京市会議員を皮切りにして、1918年(大正7年)6月には東京市参事会議員となって1925年(大正14)~1936年(昭和11年)まで貴族院議員も務めました。二・二六事件の反対演説を行ったこと、貴族院議員を辞任しています。

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二代目津村重舎

幼名は基太郎です。株式会社津村順天堂の二代目の社長となり、漢方の復権に尽力しました。1908年(明治絵41年)9月5日に生まれました。

1874年(明治7年)発布された「医制」以後から、日本の医療は西洋医学中心となりました。そのため漢方医学・東洋医学は凋落していた中で、1957年(昭和32年)10月に二代目社長の重舎は自社ビル(中将湯ビル)の一部を漢方診療所(現金匱会診療所)としました。

大塚敬節(漢方医学復権に貢献した医師)を中心として小出弥生、藤平健、伊藤清夫、相見三郎、山田光胤、大塚恭男といった著名な漢方医を迎え入れました。

1975年(明治8年)の診療所は医療法人としての認可を受けることになり、二代目重舎が理事長となりましたが、日本で漢方診療施設が法人認可されるのは初となる出来事でもありました。さらに、学会事務所とするのに適切な場所がなかった日本東洋医学会に事務所を提供したり、漢方の復興と普及を図る目的とした「漢方友の会」を1959年(昭和34年)4月に設立しました。定期的な講演と機関誌「活」を発行するなどして、財界側から漢方医や漢方医学界を支援しました。

その後も、漢方製剤を保険薬として申請するための活動を行っていきますが、厚生省は科学的証明ができていない、成分がわからない。といった理由から直ちには許可することはありませんでした。当時日本医師会長だった武見太郎は、漢方医ではありませんでしたが、明治政府が日本国の伝統的医学を抑圧してきたことを好ましいとは考えていなかったことあって、二代目重舎たちの申請に対しては「反対しない」という態度をとっていました。

厚生省も大塚敬節を薬事審議会委員に委嘱するなどした結果、ついに漢方製剤が薬価基準に収載されることにりました。(1967年(昭和42年)に小太郎漢方製薬の4品目が薬価収載。1976年(昭和51年)に津村順天堂の33処方を始めとした41処方・54品目が追加収載)。

二代目社長の経歴

  • 1908年(明治41年)・・・初代津村重舎の長男として東京都日本橋に生まれました。
  • 1934年(昭和9年)・・・慶應義塾大学経済学部卒業。
  • 1935年(昭和10年)12月・・・兵役(近衛第一連隊入隊)につきました。
  • 1936年(昭和11年)・・・津村順天堂が株式会社に改組しました。二代目は兵籍のまま取締役に就任しました。
  • 1937年(昭和12年)・・・除隊となりました。
  • 1941年(昭和16年)・・・初代津村重舎の死去に伴って、二代目重舎を襲名して津村順天堂と東亜公司の社長に就任しました。
  • 1944年(昭和19年)・・・召集がかかり、成田無線通信隊に配属され、11月には近衛師団司令部に異動しました。
  • 1945年(昭和20年)9月・・・復員
  • 1946年(昭和21年)4月・・・経済同友会設立の発起人となりました。
  • 1947年(昭和22年)1月・・・日本生薬学会賛助会員となりました。
  • 1947年(昭和22年)8月・・・東興薬品商事設立してその社長就任しました。
  • 1950年(昭和25年)3月・・・日本東洋医学会賛助会員となりました。
  • 1950年(昭和25年)7月・・・津村建物設立してその社長に就任しました。
  • 1951年(昭和26年)1月・・・津村交易設立して社長に就任しました。
  • 1957年(昭和32年)10月・・・中将湯ビルに漢方診療所開設しました。医療法人金匱会設立して理事長に就任しました。(1958年1月認可)
  • 1959年(昭和34年)4月・・・漢方友の会設立にあたり理事長へ就任しました。
  • 1965年(昭和40年)5月・・・東京都家庭薬工業協同組合理事長に就任しました。
  • 1966年(昭和41年)2月・・・全国家庭薬協議会の会長に就任しました。
  • 1967年(昭和42年)6月・・・東京都薬事審議会委員に就任しました。
  • 1970年(昭和45年)7月・・・東京生薬協会の会長に就任しました。
  • 1972年(昭和47年)・・・漢方友の会の事業を継承・発展させた日本漢方医学研究所設立して理事長に就任しました。
  • 1976年(昭和51年)2月・・・社長を退任して会長に就任しました。
  • 1976年(昭和51年)9月・・・津村順天堂の医療用漢方製剤が保険薬に指定されました。
  • 1979年(昭和54年)8月・・・漢方生薬剤研究会の会長に就任しました。
  • 1983年(昭和58年)7月・・・日本漢方製剤協会の会頭に就任しました。
  • 1995年(平成7年)6月・・・相談役に就任しました。
  • 1997年(平成9年)・・・明治、昭和、平成と生き、88歳で亡くなりました。

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東洋医学に貢献した医師 その1

大塚 敬節(おおつか けいせつ)は、昭和期の漢方復権に尽力した代表的な日本の医師です。東洋医学の発展に貢献した業績から1978年(昭和53年)に日本医師会より最高優功賞を日本で初めて受賞しました。

高知と熊本時代

1900年(明治33年)2月25日に高知県高知市に生まれました。大塚家は、高知市追手筋1番地の産婦人科・大塚修琴堂医院でもあり、曽祖父の希斎、その養子(希斎の兄の子)で祖父の恭斎、父の恵遮ともみんな医師でした。

代々続く医師の家に生まれましたが、西洋医学が嫌いということあって、中学卒業後はじめは医師を目指していませんでした。高知の高等工業学校の採鉱冶金科に進学しました。進学したものの、これにも興昧を持つことができなかったことあり、熊本県立医学専門学校(現熊本大学医学部の前身)に入りなおしをしました。

熊本医専を選んだ理由には、入試に得意な国語と漢文があったというのが理由です。当時の医学校では熊本医専だけでした。敬節は、辻潤に傾倒した文学青年で、中学時代には高知新聞の新聞小説に当選して135回の連載を掲載されてます。医専時代にも文学に没頭して詩集などを発表しています。医専を卒業してから、高知の武田病院に勤務していましたが、1923年(大正12年)秋に父親が亡くなったため家業の医院を継ぐことになりました。

漢方と出会う

漢方に傾倒したきっかけは、1927年(昭和2年)に刊行された『漢方医学の新研究』(中山忠直)でした。本書には後に師事する湯本求真の他にも、当時の漢方医家として木村博昭、中野康章たちのことが 紹介されていました。さらに、湯本求真の『皇漢医学』が1927年(昭和2年)から1928年(昭和5年)の3年にかけて順次刊行されました。敬節はこれを熱心に熟読しました。『皇漢医学』は1,000ページを越える大書だったために敬節もなかなか覚えることができずに、重要な部分を抜き出したノートを作って覚えていました。

このノートをもとにして1932年(昭和7年)に『類証鑑別皇漢医学要訣』を刊行しました。